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幸田露伴「水の東京」にみる明治35年当時の神田川

幸田露伴の随筆「水の東京」(明治35年=1902年2月)から、神田川関連の部分を現代語訳にしてみました。

原文はこちら。(青空文庫)

 陸地の東京のみどころの数々を説く人はたくさんおり、今さらわたくしが言うほどのことはなかろう。
 しかし、「水の東京」のおもしろさについては、熟知している者は言わず、言う者は知識が不足であって、江戸の昔から現在まで、誰もこれに触れていないも同様に思われるゆえ、試みにわたくしがこれを語ってみようと思う。
 とはいえ東京の地勢というのは、いわば河を帯にし、海を枕にしたような、水だらけの都である。
 潮のさしひきするところ、船の上り下りするところ、ひと筋ふた筋のことではなく極めて広大にして繁多、詳しく語りつくすことは一人の力、一本の筆で一朝一夕にできることではない。

 むかしは武蔵野の月を「草より出でて草に入る」などと表現したが、今は八百八町に家々が立ち、見渡す限り四里四方が家だらけ、東京の月はもはや「家の棟から出て家の棟に入る」ともいうべき様相である。
 しかし、東京の水辺の広大さを思えば、「水より出でて水に入る」といういいかた、楽しみ方もできるかもしれない。
 東は三枚洲の澪標(みおつくし)がはるかに霞むあたりから満潮の潮に乗ってさし上る月が、西は芝・高輪・白金の淡い森影あたりに落ちるのを見れば、誰しも「大なるかな水の東京」と感嘆するのではないだろうか。

 と、そう思い立って筆を執ってはみたものの、この大規模な水の東京の、北は荒川から南は海に至るまでを残らず記すとなると、漏れや錯誤がまざるのも避けられまい。
 わたくしとしては、強めの風に渡し船がぐらつくのも怖れるような船嫌いの人々、水の東京の景色や風情やそれがもたらす利益をまったく知らずに過ごしている人々に、多少なりともこの大都会の水上の様子全般を示そうとしているに過ぎず、事情に詳しい人々のために書いたものではないので、不備があってもあまり責めないでいただきたい。

(中略)
  (隅田川の両国橋上流、護岸用の杭が林立する)百本杭(ひゃっぽんぐい)の下流、浅草側を西に入る流れが神田川である。

 幅はそれほど広くもない川だが、船の往来はたいへん多く、前後の船のへさきや艫(ろ)が重なり合い、船やはしけがこすれあうばかりだ。これは川筋が繁華の地に当り、しかも遠く牛込の揚場まで船が通行できるためである。

 この川をさかのぼっていくと、三味線や尺八の音が流れる花町として有名な柳橋の下をもぐり、また浅草橋左衛門橋美倉橋などの下を経て、豊島町で一つの流れが左から合流してくるのに出会う。
注:ここからしばらくは、埋め立てられて現存しない水路の話になる。
 この合流してくるほうの川は神田堀の余流で、すぐ東南に向きを変えて神田川から離れ、中洲の下あたりで隅田川に入る。
 この水路は日本橋区を分断するかたちで神田川と隅田川とを貫いており、柳原橋、緑橋、汐見橋、千鳥橋、栄橋、高砂橋、小川橋、蠣浜橋、中の橋、その他の橋がかかっている。
注:龍閑川。北側半分ほどは明治16年に防火・雨水排除用として掘られた。それより南側は浜町堀とも呼ばれ、江戸時代からある。
 さらに、この水路と材木町、東福田町地先で出会う流れがある。これは今川橋の下を流れる神田堀で、お城の外濠から竜閑橋その他の橋の下を経て流れてきたものである。
注:竜閑川。前身は天和年間(1680年代)に掘られ、安政4年にいったん埋められたが、明治16年に防火・雨水排除用として再掘削。このとき神田川へ通じる水路も作られた。
 外濠は、神田堀から入って、右に折れれば神田橋一ツ橋雉子橋下を経て俎橋の下に至り、いわゆる飯田川となって堀留で終点となる。
注:この文章が書かれた翌明治36年に堀留-小石川橋間の川筋が復活。それまで現・日本橋川(外濠)は堀留が最上流点であった。
 一方、左に進めば常磐橋その他、下流の橋にたどり着く。

 神田川に話を戻そう。上に述べた柳原橋下で流れが分かれるところから上流では、和泉橋下を経て昌平橋万世橋御茶の水橋水道橋小石川橋を過ぎ、飯田橋の手前で西北から来て注ぐ江戸川の流れを受け入れ、飯田橋上流・牛込揚場で終点となる。

 その先にも外濠が連なっているが、舟の通行の便はこの揚場が終点であり、ここまでで神田川という名前も終わる。
注:現・牛込揚場町近辺。この先、牛込門以西の外堀は棚田のような構造水位が異なるため、舟の直接の乗り入れは物理的に不可能。
 神田川の終点手前で注ぎ込む江戸川は、神田上水道の余水で、流れが清く、水量もまた川幅のわりに潤沢だが、小舟しか往来できないため舟運の便はほとんどない。
注:飯田橋あたりから上流は長らく神田川ではなく江戸川と称されていたことが説明されている。
 神田川のうち、水道橋あたりから御茶の水橋の下流に至る区間は、「扇頭小景」の世界には及ばないものの、岸が高く、水は静けく、樹木が鬱蒼と茂り、幽邃(ゆうすい)閑雅の趣がかなり感じられる。むかし湯島聖堂の文人たちによって「茗渓」(茶の渓谷)と呼ばれたのがこのあたりである。
注:「扇頭小景」は、露伴のこの文より数年前、近代登山のパイオニア、小島鳥水が出して話題となっていた処女文集の表題と一致する。御茶ノ水橋は明治24年落成。聖橋は昭和2年にできたものなのでまだない。
 現在の女子師範学校と高等師範学校の下流、教育博物館の所在地は、往時の大学(昌平黌)があったところで、今なお大成殿その他の建築が保存され、境内もおおよそ以前の通りの建物が残っており、同校の教授で漢学者であった塩谷宕陰(しおのやとういん)二十勝記のおもかげをしのべる雰囲気が少からずある。
注:女子師範学校跡地は現在の順天堂医院、高等師範学校跡地は現在の東京医科歯科大学。湯島聖堂の東側の旧・昌平黌の建物は当時教育博物館/図書館として使われていた。
 茗渓よりも下流の稲荷河岸(いなりがし)は、小船への乗り場・揚り場として、古人のよく知るところ。
注:稲荷河岸は昌平橋の上流左岸。
 また、美倉橋の下流、左衛門橋浅草橋柳橋附近には釣船や網船、その他の舟遊びのための船宿が多い。

 神田川の落ち口より下流いくばくもいかないところには、有名な両国橋が架かっている。
柳橋あたりの川面
(中略)

 さて、深川の仙台堀の対岸あたりの位置に、神田川に達する水路が西北に入るものがある。これはすでに説明した。
注:浜町川。
 また、中洲の背後、箱崎と蠣殻町との間にも水路がある。
注:箱崎川。現在は埋め立てて首都高速。
 油堀と隅田川とのあわさるところから下流にも、豊海橋の下を潜って西北に入る流れがある。
注:日本橋川。
 この川の流れに沿ってさかのぼると、豊海橋湊橋の下を経て、鎧橋の下に至る。
 鎧橋下の上流には、思案橋、親父橋の下を過ぎて堀留に至る支流がある。
注:東堀留川。現存しない
 もう1つ、荒布橋(あらめばし)、中橋下を経て同じく堀留に至る支流がある。
注:西堀留川。現存しない
 これらに入らず本流を追ってさかのぼれば、江戸橋下、日本橋下とたどって、一石橋(いっこくばし)下で御濠(外濠)に出る。
 御濠は、西の方では滝の口に至り、南の方は呉服橋、八重洲橋、鍛冶橋、数寄屋橋に至るまで船が通れる。
注:一石橋西方につながる堀は道三堀。「滝の口」はその源流、内堀からの注ぎだし口で、本来「龍の口」。南方に進む外堀は埋め立てられて首都高速が走っているが、ここにあげられた橋の名はすべて交差点名としては健在。
 豊海橋から一石橋に至る水路の途中、南西に分かれて霊岸島と亀島町との間に去る流れは、新亀島橋亀島橋、および高橋の下をくだって、隅田川の本澪(ほんみよ、ほんみお)と呼ばれるあたりに入る。
注:亀島川。現存
 兜町の地先で分かれて南西に去るものは、兜橋、海運橋、久安橋その他諸橋の下を過ぎて京橋川に合する。
注:楓川(もみじがわ)。埋め立てられて首都高速となったが、橋の名残が各所に残されている。京橋川も同様。




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