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鎧橋(よろいばし)[日本橋川]

 

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鎧橋と東京証券取引所(桜の木の背後のビル)
 東京証券取引所を中心に大小たくさんの証券会社が取り巻き、まさに「株と」縁の深い街となっている兜町界隈。
 その東京証券取引所の正面脇で日本橋川を渡る橋の名前は鎧橋。

東京証券取引所

「兜」町に「鎧」橋。ばっちり決まったネーミングだが、この鎧兜のコンビネーションの歴史はどうやら江戸時代より古く、もともと橋の名はこの付近にあった「鎧の渡し」「鎧稲荷」にちなむ一方、付近に源義家所縁の「兜塚」(兜岩,兜石)があり、これが現在の町名=兜町につながっているようだ。

鎧が先か兜が先か?

 下記は東京証券取引所の「兜町の史跡」ページなどを参考に、筆者がまとめ直したものです。
<鎧の渡しの起源についての伝説>
 永保年間(1081~84年)、当時入江が深く入り込み、下総方面(=隅田川の向こう側が下総)への渡し場に利用されていたこの地に、東征途上の源義家がやってきた。
 ところが、折悪しく暴風雨で渡しが使えない。
 そこで義家が、自分の鎧を脱いで海神(龍神)に供え祈ったところ、暴風雨は収まり、無事に下総へ渡ることができた。
 これにちなんで、以後この渡しを「鎧の渡し」と呼ぶようになったという。

兜神社<兜岩(兜神社境内)の起源についての伝説3題>
◎承平の乱(935~940年)のころ、平将門の首を打った藤原秀郷がその首を京都へ運ぶ際、罪滅ぼしにと、平将門の打首に添えていた兜を土中に埋め、塚を作って供養した。この塚を当時は兜山と呼んだが(つまり、大きな塚だったらしい)、のち、いつしか兜岩(兜石)だけが残って現在に至る。
兜石◎前九年の役(西暦1050年代)で源義家が奥州征伐に向かう際、岩に兜をかけて戦勝を祈願したことから、この岩を兜岩あるいは兜石と呼ぶようになった。
◎後三年の役(西暦1080年代)で奥州に赴いた源義家がこの地に凱旋してきた折、東夷鎮定の祈願を兼ね、記念のために兜を楓川あたりの土中に埋めて塚を作った。これを当時の人達は兜塚と呼び慣わし、それがいつしか兜岩(兜石)となった。
 ……というわけで、源義家にちなむ伝説が3つに平将門1つ。まあ、真偽はどうであれ、10~11世紀の出来事が地名の起源として付近住民に伝承され、江戸の中でもこのあたりがかなり古くから「伝説が残されるくらい付近住民によく知られた場所」であったことは確かなようだ。

かつては都電が走っていた

 現在の鎧橋は、交通量の多い両隣=江戸橋、茅場橋にはさまれた補助ルートみたいな雰囲気がただようが、下流で道幅のずっと広い新大橋通りを通す茅場橋ができたのは(たぶん)関東大震災後。
 それまでは兜橋が茅場町・八丁堀と対岸の小網町・蛎殻町を結ぶ唯一の橋で、市電(都電)もこの橋を通り、南詰めすぐのところに「茅場町」停留所があった。

 さらにさかのぼれば、明治5年にこの橋ができるまで、すでに説明したとおりこの一帯には橋がなく、ほぼ現在の橋と同コースの「鎧の渡し」だけが対岸に渡る手段となっていた。
広重 名所江戸百景
「鎧の渡し小網町」

初架橋:
明治5年
現役橋
昭和32年7月
橋長 56.7m
管理者 中央区
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