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薬研堀/元柳橋跡 (隅田川沿い)

 

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薬研堀

広重 : 両ごく回向院元柳橋 かつて繁華を極めた両国広小路の南のはずれ……現在の地理で言うなら下の写真左手にある「日本橋中学校」校庭から右側の歩道橋の手前付近にかけて……は、ほぼ江戸時代全期間から明治36年まで約300年、薬研堀(やげんぼり)と呼ばれる堀があったところ。
 右の画像=広重の名所江戸百景「両ごく回向院元柳橋」の図中、川向こうの山なりの橋がかかっているところがこの付近にあたる。

薬研堀跡(日本橋中学校校庭付近)
 薬研は漢方薬を砕く舟型の用具で、V字型の溝に薬の材料を入れ、電車の車輪のような円盤状の器具をその底に突き立てて往復させ、材料を細かくすりつぶす道具。堀の断面のかたちや深さがその薬研に似ていることからこのように命名されたものらしい。

 堀が掘られた当初はほとりに「矢の倉」と呼ばれる蔵があり、そこへの荷物(米だという説が支配的のようだ)の搬入用に作られたのがこの堀であったようだ。
 当初、この薬研堀はL字型のけっこう長い堀で、現在の地名・地番であらわすと、
・東日本橋1丁目10番
・東日本橋2丁目10番
・東日本橋2丁目9番
 ……の領域に相当していたようだが、元禄時代(1688~1703)に蔵は築地に移転、1771年(明和8年)にはL字の長辺にあたる部分(2丁目9番、10番付近)が埋め立てられて「薬研堀埋立地」と呼ばれる町屋となり、以後200年ほどは南側の短辺部分数10mだけが薬研堀として存続していた。

 埋立地を含む堀の近辺は 「繁華街・両国の南のはずれ付近」にあたるため、料理屋や商家が立ち並んでかなりにぎわっていたらしい。

七味唐辛子の異名「やげん堀」の発祥地

楽天市場内「江戸のれん」で、元祖「やげん堀」の七味唐辛子が売られています。
 七味唐辛子の元祖であり、あるいは代名詞としても通用する「やげん堀」中島商店は、今をさかのぼること実に380年、江戸時代初期の寛永2年(1625年)にこの薬研堀近辺に薬店として創業。やがて漢方の知識を応用して7種の調味料を調合した「七いろ唐辛子」を考案して江戸市中を売り歩き、いまふうに言うなら「ヘルシーで料理の味がひときわひきたつ調味料」というわけで爆発的にヒット、以降その専門店として現在まで営業が続いているのだという。

 初代当主の名は「からしや中島徳右衛門」。ときの将軍・徳川家光に気に入られて徳川の「徳」の字をいただいたそうで、現在の商標も∧に徳の字、9代目となる現在の店主やその息子さんも、名前に「徳」の1字を受け継いでいる。

 この初代当主・徳右衛門さんが生み出した配合レシピは、
「黒ゴマ」「陳皮(ミカンの皮)」「生の赤唐辛子(生)」「焼いた赤唐辛子」、「ケシの実」「麻の実」「山椒の実」
 ……の7種。これらの材料を「薬研」を使ってすりつぶして調合していた。
 現在では製造作業は機械化されているものの、材料の顔ぶれはこの店では同じものがそのまま守られているという。

 元祖「やげん堀」は今では浅草新仲見世を本拠としているが、発祥の地である薬研堀跡近くの隅田川沿いには「大木唐からし店」というお店が健在。この店も創業は明暦2年(1656)と大変古く、しかも江戸時代からずっとほぼ現在地にあったらしく、江戸明治東京重ね地図にも安政3年=1856年時点のマップにこの店名が明記されている。
 今となっては周辺はこういった小売りの商売に向いていると思えない(ちょっとさびしい)一角だが、店内の様子からは、どうやら常連客が定着して成り立っているような感じだ。

 ちなみに、一般にこのタイプの混合調味料といえば「七味」(しちみ)が通り名で、元祖「やげん堀」の看板も「七味唐辛子」となっているが、これは本来関西発祥の呼び方(京都・清水寺門前の「七味屋」が元祖)だそうで、江戸での呼び名は「なないろ唐辛子」であった。
 この大木唐からし店ではその呼び方を現在も踏襲、「七色唐がらし」の呼称で販売している。

医者の町・薬研堀

 七味唐辛子店に発展した中島商店のみならず、医者に縁の深い「薬研堀」という地名がひきよせたか、あるいは単なる偶然か、付近は(時代もよるようだが)医者や薬屋の密集地としても知られていたようだ。

 尾張屋清七版「江戸切絵図」安政6年版(1859)(人文社「嘉永・慶応江戸切絵図」所収)で近辺の様子を見ると、薬研堀埋立地より南側にひろがる武家屋敷地帯には、その人名から医師の居宅だと判別できるものが多数含まれている。
・林洞海 (著名な幕府御殿医、1813~1895)
・加藤善庵(御目見医師=将軍の目通りを許された地位の高い医師)
・水谷玄丹(一橋家奥医師)
・昆泰仲(小石川養生所医師)
・竹内元正(医師)
・多紀楽眞院(奥医師、医学館教授)
・土生弦昌(医師)
・半井策庵(医師)
・吉田秀哲(鍼師)
 ただし、武家屋敷エリアに住み、切絵図に姓名まで記されているということは、かれらが一般の町医者ではなく幕府あるいは徳川家直属の地位の高い医師たちだということをあらわすようだ。
 つまり、どちらかといえば公務員宿舎みたいな意味合いでの「医者の町」であり、彼らが自宅で一般外来の診察みたいなことまで行っていたのかどうかはちょっとわからない。

元柳橋

 薬研堀は東端部分が大川端ぞいの道を横切っており、ここには江戸時代初期から橋がかかっていた。位置は上で紹介した現在の写真でいえば右端の歩道橋の少し手前あたりだったようだ。が、すでに触れたとおり明治36年に埋め立てられ、現在はあとかたもない。

 この橋は北詰に柳の木が一本あることから初期には「柳橋」と呼ばれていたが、やがて近くの神田川河口部にかけられた橋が同じ名で呼ばれるようになり、元祖の側は「元柳橋」と呼ばれるようになった……のだそうである。

広重が描いた元柳橋

 このページ冒頭で紹介した広重の絵の拡大図を下に示す。
 荷を積んだ帆船などが行きかう隅田川の向こう側、山なりのかたちをした橋が「元柳橋」。右側(北詰)にはなるほど一本の柳の木が立っている。
 橋の左側(南詰)に描かれている家並みは武家屋敷・大名屋敷街。のち、矢ノ倉町という町名を経て現在は東日本橋1丁目。
 右側(北詰)は町屋で、当時の町名は米沢町3丁目。現在は東日本橋2丁目になっている。
 川岸の小屋の前にはよく見ると旗がかかっている。両国広小路に連なる仮設の見世物小屋や飲食店の最南端ではないかと思われる。

 近所の神田川にかかる柳橋に名前をとられたかたちにはなったものの、この絵で見る限り、なかなか存在感のある橋だったようだ。

「矢の倉」の語源

 近隣の地名となり、またそもそも「柳橋」自体が「矢の倉橋から変化したもの」という説もある「矢の倉」の語源について、現地の石碑(地元有志が建立)には、
「もともと谷野という地名だったところに建った倉=矢野御蔵」が語源。
 ……と説明されている。
 それとは別に、文字通り「矢の倉」つまり武器庫だったという説、「竹矢来をめぐらした米蔵だった」という説などもあるようだ。

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