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新大橋 (隅田川)

 新大橋(2004年12月)

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新大橋と「あたけ」の由来

広重「名所江戸百景」大はしあたけの夕立
 新大橋は、両国橋に遅れること30数年の元禄6年冬に架橋された橋で、当時の橋は現在より200mほど下流にあった。
 現・両国橋が当時「大橋」と呼ばれていたため、こちらは「新大橋」と名づけられ、「大橋」が存在しなくなった(両国橋が正式名になった)後もずっとそれが踏襲されているわけだが、ゴッホが油絵で模写したことで有名な広重の浮世絵(右)では、単に「大はし」となっている。
 「新」を略しても実用上は両国橋と混同される恐れがなくなって以降、そのように呼ばれることも多かったのだろう。
 画題にある「あたけ」は「安宅(あたけ)」で、雨にかすんだ深川側の岸辺あたりを指す俗称。
 ここには幕府の「御船蔵」があり、初期には「安宅丸(あたけまる)」という将軍専用の豪華な御座船が係留されていたが、長く使われることなしに廃船となり、その供養の塚が設けられたことにちなむそうである。

芭蕉、新大橋を詠む

 俳人松尾芭蕉は延宝8年(1680)まで日本橋にいたが、のち深川に移り、新大橋の東詰地点から南へ200mほどのところに住んでいた。
 そこへ目と鼻の先に新しい橋ができることになったわけで、橋の建設当時、

「初雪や かけかかりたる 橋の上」(完成直前)
「ありがたや いただいて踏む はしの霜」(完成直後)

 ……と、(自分、ないし近隣住民の)喜びを詠んだ2句を残している。

 この芭蕉の旧居跡=芭蕉庵は時代の流れで荒廃・消滅してしまい、現在では正確な地点も不明らしい、大正6年の津波来襲のあと石造りの蛙(芭蕉が愛好されたとされる)が出土、地元ではその地点に芭蕉稲荷を祀って現在に至っている。
 また、現在はすぐ近くに「芭蕉記念館」および分館があり、関係資料や句碑、銅像などが展示されている。
初架橋
元禄6年(1693年)
先代の橋
明治45年(1912)7月19日、初めて現在の位置に架橋。この橋は関東大震災と東京大空襲のいずれの折にも落ちずに持ちこたえ、「お助け橋」「人助け橋」と呼ばれるようになったという。現在も一部が明治村5丁目に保存されている。
現役橋
昭和52年3月27日開通。斜張橋。橋長170m 幅員24m
周辺リンク
アパホテル<日本橋浜町駅南>
東横イン日本橋浜町公園
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新大橋と遊覧船「HIMIKO」
新大橋をくぐって浅草方面に進む遊覧船「ヒミコ」……2004年12月

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