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清洲橋 (隅田川)

 

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清洲橋(2011/2)

深川「清澄」と日本橋「中洲」を結ぶ、重要文化財の橋

 表題の通り、この橋の名前の由来はシンプルで、深川区(現・江東区)澄(清住)町と日本橋区(現・中央区)中町を結ぶ橋、ということから命名されたもの。
 1つ下流に隣接する永代橋との対象性を配慮して吊橋としたもので、「男性的な永代橋と女性的な清洲橋」のような表現で、現在も水上バスの「隅田川橋めぐり」のハイライト的な橋として親しまれている。
 この優美な姿のモデルはドイツのケルンでライン川をまたいでいた大吊橋だそう。

※平成12年(2000年)、隣の永代橋とペアで「土木学会選奨土木遺産」に選定され、橋の東詰めに「帝都を飾るツイン・ゲイト」の表題つきの碑文が飾られている。
※平成19年(2007年)、勝鬨橋・永代橋とともに国の重要文化財(建造物)に指定。
※平成21年(2009年)、勝鬨橋とともに経産省の「近代化産業遺産群」に認定。

明治時代に市街化した「中州」

 清洲橋の西詰・日本橋中洲町は、江戸時代の初期には無人の砂州だったところ。
 その後明和8年(1771)に埋め立てられて「中洲」と呼ばれる遊興街となって繁盛したが、寛政元年(1789)、松平定信の寛政の改革の折に「風紀粛清」と、上流で洪水が頻発する結果を招いてもいため、町並みは撤去して隅田川の水をY字型に分ける水路(箱崎川)があらためて掘られ、以降の江戸時代はそのまま無人の州の状態に戻された。

広重「名所江戸百景」みつまたわかれの淵
 以降かそれ以前からか、地形が「川の三叉路」であることから付近は「三派(みつまた)」と呼ばれ、川幅が広く見晴らしがよいため月見の名所として親しまれていたそうで、右の広重の浮世絵「みつまたわかれの淵」でもそうした時代の情景が描かれている。画面奥の白帆の先が中州、その右側の岸が切れ込んでいるところが箱崎川だとすると、当時の中洲は木の生い茂る無人の「島」だったことが確かに見て取れる。

 明治19年(1886)には、再び中州は埋め立てられ、舟宿、料理茶屋、劇場(真砂座)などが立ち並んでにぎわった。
 このころは中州南端から対岸の清住(清澄)河岸とを結ぶ「中洲の渡し」が運行していた。

 そして昭和3年、関東大震災復興計画に伴って清洲橋が新たに架橋され、同時に中洲地区の真ん中を貫く現・清洲橋通りが開かれて現在に至っている。
初架橋
大正14年3月着工、昭和3年(1928)3月15日開通。
自碇式吊橋、橋長186.3m、幅22m。復興局施工、橋桁製作・神戸川崎造船所
現役橋
上記に同じ。
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