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宝田橋(たからだばし) [日本橋川]

 

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宝田橋

 俎橋から100mほど、閑静な裏道(竹平通り)にかかる地味な橋。

 実際には川の上空に首都高が盛大に覆いかぶさっており(上の写真はトリミングで見えなくしてある)、写真で見るほど気持ちのいい場所ではないが、このように切り取って見るぶんには都心のオアシスみたいな感じだ。

↓トリミング抜きだとこうなる。

「宝田」の由来

 この橋そのものは昭和に入ってから架けられたものだが、橋の名前となっている「宝田」という地名の歴史は非常に古く、家康の江戸開城以前、丸の内あたり(からこの近辺にかけて?)にあった村の名前が「下平河宝田村」だった。
 のち、江戸城の拡張で宝田村の住民は日本橋大伝馬町に立ち退きを命ぜられ、そのとき同時に移転した村の鎮守・宝田恵比寿神社は今もその名のまま「べったら市」で有名だ。

大蔵省財務局管理・竹平寮跡

 橋を渡って右側はさくら銀行本店。左側は、このページの写真の取材時点(2001年)では「大蔵省財務局管理竹平寮」と地図にあったのだが、実際には広々とした空き地になっていて、その川沿い部分は上の写真の通り雑草と低い木が茂っていた。

 この土地の来歴はいろいろ調べてみると面白くて、時代、時代によって実にさまざまな来歴が出てくる。(ブログにお寄せいただいた情報も含みます)
・江戸時代前期(17世紀)
 ……旗本屋敷(稲垣若狭守:近江山上藩6千石)
・江戸時代後半(18世紀)
 実は池波正太郎作『鬼平犯科帳』の重要舞台「(平蔵の)清水門外の役宅」の位置は、「清水門がまっすぐ正面に見える位置」といった作中の記述からみて、まさにこの土地が該当する。
 上記はフィクションの話ではあるが、実在の人物としての長谷川平蔵の死(1796)から30年たったころには、実際にこの土地に「火盗改メ」の役宅が存在した……という話が松平太郎著『江戸時代制度の研究』という本に載っているという。
・江戸時代終盤(19世紀)
 ……幕府御用地で厩や馬場があったとのこと。江戸明治東京重ね地図(安政3年/1856時点)には「村松静之助預」と表示され「御馬預」と注釈されている。つまりこの村松静之助という人がお馬担当の旗本であったらしい。
・明治~大正、昭和(戦前)
 ……大隈重信邸の庭となっていたが、その後政府の財政難で売却され、フランス公使館となった。その後は第2次大戦の終戦まで、憲兵隊の下士官用の宿舎。
・昭和(戦後)以後
 しばらく進駐軍に雇用された要員の宿舎として使われたのち、竹平寮(公務員住宅)。寮が取り壊された跡はしばらく完全な更地。

2001年7月時点の竹平寮跡地
2001年7月時点の鬼平ならぬ竹平寮跡地。このころは完全に更地であった。

 ちなみに「竹平」は一時期のこの周辺の町名で、ここよりもう少し南、文部省があった一角が「竹橋門」「平川門」のすぐ前だったことにちなむ。もちろん「鬼平」とは関係ない。

2005年、竹平寮跡から明治時代?の砲弾が多数出土

 上で触れた宝田橋たもとの旧・大蔵省財務局管理竹平寮跡地は、 ぼくが通りかかった時期の後、しばらく暫定的に駐車場として使われていたらしいが、現在は2007年2月の完成予定で千代田区役所の新本庁舎と国の合同庁舎が入る建物の建設が進められている。

 建設工事開始にあたってはまず発掘調査が行われ、「江戸城清水門前の武家屋敷跡 九段南一丁目遺跡」と名づけられ、「かまど跡」「上水木樋(木製の水道管)」など、いろいろ興味深い遺物・遺構が出土したようだ。

 で、発掘調査が終わったところで本格工事が始まったわけだが、なんと2005年5月26日、現場の地中約10メートル(井戸跡の底?)から直径9センチ、長さ18センチほどの古い「砲弾」が多数発見され、一時作業が中断される事態が起きた。
 発見されたのは江戸時代末期から明治時代にかけて使われたといわれる「四斤砲弾(榴散弾など)」で、最終的には354発が見つかり、自衛隊の処理班が数度にわたって出動、撤去作業が行われた。

防衛庁・自衛隊報道資料
2005/6/2・東京都千代田区において発見された不発弾について(最終報)
2005/6/1・東京都千代田区において発見された不発弾について
2005/5/26・東京都千代田区における不発弾発見事案について(最終報)

 さきほど挙げた「この土地の来歴」をみても、直接に、
「なぜここに砲弾があったか」
 につながる手がかりは見あたらないが、明治のごく初期からすぐ近所=清水濠の対岸に近衛砲兵営があり、1878年(明治11年)8月には、前年に起きた西南戦争の恩賞に対する不満と俸給減額への不満が原因で、近衛砲兵全員が参加する暴動(竹橋事件)が起きている。
 この暴動は数時間で鎮圧されたものの、ほかでもない大隈重信邸に向かって砲弾が打ち込まれたという記録があるそうで、このあたりの事情と何かしらかかわりがあるのかもしれない。
 というか、単に「まだ大隈候の邸宅になる前、ただの空き地だった時期に近くの近衛砲兵営が勝手に弾薬庫代わりにした」とかいうだけの話かもしれないのだけれど。
宝田橋周辺の川面
初架橋:
昭和4年(1929)10月(木橋)
現役橋:
昭和43年(1968)12月竣工
橋長:26.8m 幅8.27m 鋼橋
周辺リンク
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03-3264-1111
(地下鉄九段下駅から徒歩1分)
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