作者・喜多条氏が実際に暮らした1960年代後半から、歌が世に出た70年代前半ごろの「神田川」、とくにこの高田馬場-早稲田近辺は、曲調からは想像しづらい人も多いかと思いますが、
「切り立った護岸で仕切られ、汚れて悪臭ただよう水が流れる、うらぶれた東京の"場末"的河川」
「ちょっと多めに雨が降るとたちまち濁流があふれて近隣に水害をもたらす暴れ川」
といった状況にほかなりませんでした。
歌から普通にイメージされる情景より3割がたビンボーくささアップ、みたいに考えるとちょうどいいかもしれません。
そのあたり、歌の2番の歌詞を(映画のストーリーを調べたりしながら)説明的に脚色して語ると、こんな感じになるかと思います(もちろん筆者の独断に基づく記述ですので、原作者の抱いたイメージとは違うかもしれません)
貴方はもう、あれは捨ててしまったのかしら。
ほら、いつか銭湯帰りに文房具屋さんで買った、二十四色のクレパス……あれを買って帰ってから、部屋で何回か、貴方が描いたのよね、私の似顔絵を。
毎回、しつこく「もうちょっとうまく描いてね」って言ったのに、何枚描いても、いつもちっとも似てないの。
寂しかった。絵のうまい、へたの問題じゃないと思ったから。
貴方が私を見る目は少し上の空。 いつも銭湯で私のほうが待たされたのも同じことね。ふっと自分の世界に入り込んでしまう。見ているようで私をきちんと見てない。だから似顔絵が似ない……そんなふうに感じてしまったから。
そこは高田馬場の駅から少し東よりの川べり。窓の下には、悪臭と合成洗剤の泡がただよう神田川が元気なく流れていたわ。
都心とはいえ数年前から大雨のたびに床上浸水するために、地価やアパート代がひときわ安かった。そんな場末の、たった三畳一間の小さな下宿で、私たちはふたりで暮らしていた。
ほんの数年前のことなのに、とても昔のような、でも、昨日かおとといのような……思い返すと不思議ね。
そうそう。こんなことがあったわ。似ていない似顔絵を私が見つめていたら、貴方はそんな私の指先をじっと見つめて、ぽつりと「悲しいかい」って聞いたのよ。
ふたりの赤ちゃんの中絶のことなら、確かに悲しいことだった。でも、別にそのことを思いつめてたわけじゃないの。あの言葉は、貴方自身の悲しみや恐れの裏返しに聞こえたの。
そう、若かったあの頃の私は、何も恐くなかった。自分の将来へのおそれとか、そういうものは何もなかった。だって、私にとっては、あのころがそれまででいちばん幸せだったから。
ただ、だからこそ、貴方の優しさが恐かった。
わたしを気遣って優しくふるまうことで、本心を隠してるように見えたから。 自分で自分をごまかしているように見えたから。
家族の期待を担って上京したワセダの学生、エリート街道を進もうと思えば進める立場の貴方。
そんな貴方が、たまたま知り合った私のような貧しく学歴もない女と、場末でモラトリアムな暮らしをしてる。
敷かれたレールの上を進むことに疑問をもち、貴方はもがいていた。貴方にとっての私は、そんなあなたを癒す立場。
でも、貴方が本当に求めていたのは「癒し」じゃなく、前向きに社会に漕ぎ出すきっかけだったはずよね。そんな焦燥感が私にも伝わって、それが私をいたたまれない思いにさせてった。
今はフリーで放送作家のお仕事されているんですってね。おめでとう。夢がかなったのね。 |