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太田道灌の江戸湊開発から家康入城まで

図2

 徳川家康が江戸に入った時点の江戸の地形(推定)。

 平川が日比谷入江の手前で大きく東にそれ、いまの日本橋川の流路をたどって江戸前島の反対サイド、隅田川河口部で海に注ぐようになっている。

 これにより、南方に張り出した半島部=江戸前島が川によって北側の台地と切り離され、より「島」と呼ぶのにふさわしい立地になっている。
 じつは半島部が江戸前島と呼ばれるようになったのは、この地形が成立してからではないか……という疑問も浮かぶが、これといった資料もないので疑問のままにしておく。

 左の図に比べると、日比谷入江が目と鼻の先にある地点で流れが東に向かうのは、「不自然な地形」に見える。
 一面、「初期の江戸湊が繁栄し、石神井川下流部だけではスペース不足」という状況を考えた場合、より長く平坦な船着場を確保する上で、この新しい平川下流部の地形はうってつけでもあるし、 「万一の増水時、日比谷入江の堤防を切れば、港を増水から守ることができる」構造になっているところも注目に値する。

 ……と、これらをまとめて考えると、この流路の変化には「かなり人工のにおいがする」といえるだろう。

 実際この流路は太田道灌が指揮して掘ったもの、と推定している書籍もある(定説なのかどうかは知らない)。ただ、川の流路は自然に変わることも当然あるわけで、たとえば洪水の土砂が日比谷入江近辺に堆積し、せき止められた流れが自然に東に移った(蛇行した)可能性もないとはいえないかもしれない。

 ……と、卵が先かニワトリが先かは知らないけれど、とにかく大田道灌は、この新しい流路の西端、
「建設資材運搬に便利で、かつ丘の上」
 という条件を満たす現在の皇居近辺の丘の上に元祖・江戸城を開き、「関東の流通拠点としての江戸」の本格開発に着手した人物として長く記憶されることとなる。

 ……で、徳川家康が豊臣秀吉に関東の経営を任されて到着した江戸は、そんな「良港を持つ海浜都市」だった。
 当時の江戸については、「見渡す限り葦の原っぱが続く寒村、低湿地」みたいな記録も残っているのだけれど、実際は家康クラスの大名が住み着くにはまだイナカっぽかったというだけで、関東近辺の重要拠点としてある程度栄えていたか、もしくは過去に栄えていた事実を豊臣秀吉は認識していた、と考えるのが妥当そうだ。





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