
天下をとり、江戸に幕府をおいた家康による整備たけなわの江戸の地形。
日本橋川中央部、常盤橋付近(現在の日銀の前あたり)からは、江戸城への荷物搬入ルートとして「道三掘」(地下鉄東西線大手町近辺。現存しない)が掘られている。
これだけはまだ家康が天下をとる前の工事で、「江戸湊」すなわち現日本橋川下流部からの貨物運搬ルートの確保が、江戸城の拡張整備には最重要課題の一つだったことをうかがわせる。
一方、神田地域の開発や水利の必要上からか、不忍池方面からの「旧石神井川」(江戸橋付近に流れ込んでいた)は、いまでいう神田明神下あたりからまっすぐ東に堀を掘削して放水され、最下流部だけが堀として残された。
また、日比谷入り江は、各所の堀の掘削残土や神田山(現在の駿河台南側。神保町あたり)を崩した土で埋め立てられ、江戸城の前線を守る譜代大名の屋敷用地となった。
直径せいぜい1km~2km程度の範囲の中に、土取りに便利な山 (神田山) があり、埋め立て可能な遠浅の海岸(日比谷入江)があり、そして各種資材・物資運搬に便利な水路も江戸湊に直結する新ルート=道三堀として確保された……というわけで、あらためて見てみると、とくにこの道三堀から江戸城にかけての一帯で、立地条件を活かし、極力資材の移動距離を節約しながら作業が進められていることに感心する。
一方、江戸城建設用地から少し離れた一帯には、意外に地盤がしっかりしていてそのまま活用可能な(当時の規模としては十分広大な)平坦地=江戸前島があり、こちらは初期には櫛形に堀を掘って大規模港湾施設として活用。江戸城築城が一段落した後には、堀も埋め戻して町人地として活用されることになる。