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上水橋(じょうすいばし)[神田川]

 
 

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上水橋(2004/06)
 地下鉄丸の内線(支線)の終点・方南町から、なんとなく心やすらぐ雰囲気ただよう「方南中央通り商店街」の坂道を下りきったところにかかる橋。2004年時点では欄干に青ペンキで川の流れをイメージしたような模様が描かれていて、ちょっと配色がいただけない感じだった。
 この橋に連なる道筋は相当古くからあるものらしいことが、途中(この橋を起点にすれば北詰)にあるお寺(念仏山東運寺、別名「釜寺」)の存在で知れる。
 橋の名前は神田上水にちなむものだろう。その命名センスからも、この界隈では古株の橋らしいことが想像される。南詰(上の写真)には緑地帯と方南小学校がある。
上水橋から方南橋(2004/06)上流の方南橋は目と鼻の先。

 2007年11月に現地を再訪する機会があった。下の写真はそのときのスナップ。
 いまいちだった欄干の塗色は白と淡い水色に塗りかわり、だいぶスッキリした雰囲気。

「俺たちの旅」ロケ地

 橋の南詰、写真右側の白っぽい建物は、1975年(昭和50年)のTVドラマ「俺たちの旅」で、物語の重要な舞台"たちばな荘"として使われた経歴があるとか。「1階が食べ物屋、2階がアパートになっている川沿いの木造家屋」というあたりが撮影のニーズに合致したらしい。

釜寺(念仏山東運寺)

 途中左手(橋の北側すぐ)には、通称「釜寺」こと「念仏山東運寺」がある。(付近の環七沿いのバス停の名前も「釜寺」)。
 境内は緑濃くこぢんまりとした雰囲気で、武家や豪商の屋敷を思わせる。L字に折れ曲がった参道の途中には竹林などもあって、ちょっと京都・嵐山でも散歩しているような気分になれる。
 歴史も古く、、天正年間(16世紀後半)に当地に建てられたお堂が起源とのこと。本尊(阿弥陀如来)のほかに「安寿と厨子王」ゆかりの「身代り地蔵尊」がまつられている。「山椒大夫に釜ゆでにされそうになった厨子王をお坊さんの姿になって助けた」のだそうだ。
 なお、現在の寺の名前は大正11年に入谷にあった東運寺が移転・合併してきてからのもの。

釜寺山門由緒

釜寺(念仏山東運寺)山門
 昭和30年ごろの住職による由緒書きによれば、この寺の門はもと新橋にあった奥州一関三万石の大名・田村右京太夫(忠臣蔵でおなじみの赤穂の殿様・浅野内匠頭ゆかりの人物)の屋敷の脇門が移築されたもの。元禄年間(1600年代)以来という古い建物である。
 この門がここに建つまでの経緯をもう少し詳しく追うと(少し話がややこしいが)、京都建仁寺にあった織田有楽斎(織田信長の弟で茶人、1547年生)の茶室「如庵」(茶室三名席の1つとして知られる国宝)が明治41年に財閥・三井家の手で東京・麻布今井町に移築された際、まずその表門に流用された前歴がこの門にはある。
 のち茶室「如庵」は昭和13年に大磯の三井家別邸に移築され、さらに1970年に名古屋鉄道の所有となって愛知県犬山市に3たび移築された。門のほうはおそらく茶室の大磯移築の折にいったん三井家が解体保存したようで、そのまま戦中戦後をすごし、昭和28年に三井家より寄進を受けてあらためて当地に復元されたという。
 釘を一切用いず、門扉の開閉を確実にするため内側に5度ほど傾けて建てられている点など、技術的に注目に値する門だそうだ。

釜寺本堂の「釜」

釜寺の本堂
 こちらは釜寺の本堂。少し見づらいが、屋根のてっぺんにあるUFOのようなものは、当寺の俗称の由来となっている「釜」。写真だと小さくみえるが、米一俵分のごはんを一度に炊くことのできる大きさだそうだ。
 寺の本尊・「身代り地蔵尊」にちなんでおかれたものだが、オリジナルは戦災で焼失、現在は昭和20年に信者が寄進したものがのっかっている。
杉並区教育委員会設置の東運寺説明板より
東運寺
 「釜寺」の通称で親しまれている念仏山東運寺は、阿弥陀如来像を本尊とする浄土宗の寺で、「釜寺」という通称の由来となった「身代り地蔵尊」も安置されています。
 戦国のころ、天正元年(一五七三)備前(岡山県)の僧一安上人が、安寿と厨子王の守り本尊「身代り地蔵尊」を奉じてこの地に来ました。これに帰依した方南の大地主鈴木伊兵衛が屋敷を寄進して念仏堂としたのが、当寺の開創と、元禄十四年(一七〇一)ごろ住職であった祐梵上人筆の由緒書は伝えています。
 この「身代り地蔵尊」は、山椒大夫に釜ゆでにされそうになった厨子王を、お坊さんの姿になって助けたという言い伝えがあり、それにちなんで当寺本堂の屋根に釜を置いたといわれます。現在の大釜は、昭和二十年の戦災で本堂焼失後、当地の信者が寄進したもので、米一俵(六十キログラム)を炊くことができるといいます。
 文化財としては、元禄二年(一六八九)の刻銘のある半鐘や江戸初・中期の庚申塔・石仏などが保存されています。また、山門はもと田村右京太夫江戸屋敷の脇門(浅野内匠の頭が通ったと伝えられる)であったのが、そのゆかりの人々の冥福を祈って寄進保存されたものです。そのほか、中国山東省の孔子家より頂いた銘木「楷樹」が数株植えてあるのも珍しいです。
 なお、大正十一年、下谷入谷町にあった東運寺(慶安四年=一六五一茂山上人開山)と合併し、改めて念仏山東運寺となりました。

 昭和五十五年二月二十日 杉並区教育委員会

山椒大夫」「安寿と厨子王 」について

 辺境に流罪となった父を尋ねて母、姉(安寿)、弟(厨子王)が奥州を旅立つが、途中、人買いに騙され、母(と乳母)は佐渡、姉・弟は丹後の山椒太夫のもとに奴隷として売られる。姉の計らいで弟・厨子王は脱走し、運命に導かれて丹後の国守に出世。さっそく姉の救出をはかるがすでに彼女はこの世になく、山椒太夫を罰した厨子王は、佐渡に赴いて母と再会する。
 こんにちでは森鴎外 の小説「山椒大夫 」で有名なこのストーリーは、中世の民間伝承に端を発し、江戸時代には説経節(語り物の芸能)、義太夫節(浄瑠璃)、歌舞伎の演題としてもポピュラーになって、幕末に至るまで絶えずさまざまなバリエーションが加わった「山椒大夫」がしきりに上演された。
 その「山椒大夫の物語ゆかりの寺」といういわれのおかげで、この寺も昔から江戸郊外の名所として相当ポピュラーだったようだ。いってみれば「企画の勝利」!?
初架橋:
未確認
現役橋
未確認
周辺情報
上水橋緑地
橋の南詰の小公園。昭和63年11月開園。
念仏山東運寺(別名 釜寺。北詰すぐ)
杉並区方南2-5-4
釜寺東遺跡
杉並区方南2-6-11
先土器時代から古墳時代にかけての遺跡。

地下鉄丸の内線 方南町駅
(北方徒歩3分ほど)
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おすすめ参考資料
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