亀島川は、日本橋からまっすぐ東に流れる日本橋川から茅場町の先で分岐・南下し、亀島橋付近で東に大きくカーブして隅田川に合流する川、というか水路、である。
江戸時代初期まではこの付近から先(東側)は葦の生い茂る低湿地。その低湿地を1600年代初頭に埋め立てて「霊岸島」(現在の新川1、2丁目)ができ、同時にこの造成にあたって埋め残された西側の部分の水路が、すなわち現在の「亀島川」ということになる。
霊岸島には、ごく初期(寛永元年1624~明暦3年1657)にはその名も「霊岸寺」があったが、いかめしい名前のわりに、当時は埋め立て直後だけに地盤が非常に軟弱で、別名「こんにゃく島」とも呼ばれていたそうだ。
一歩歩くごとに足元がぶよぶよっと動く感じが出ていて、なかなか言いえて妙なネーミングだ。
橋の名の由来はむろん「霊岸島」からきており、その「霊岸島」はお寺の名が由来だったわけだが、肝心のそのお寺自体は明暦の大火後に深川に移転、現在もその地にある。
火事で焼けたという直接の動機は明確ではあるものの、そもそも、
・新しい造成地にまず寺社を誘致し、参詣客が踏み固めて地盤が締まってきたころあいをみはからって寺そのものは追い出し、別の(本来の)目的に土地を使う。
……というのは、幕府の都市開発のパターンだったようだ。
霊岸島の場合、当時は港湾施設向きに理想的立地条件なのだから、お寺の境内にしといちゃもったいないという事情もあったことだろう。
寛永11年(1635)には、松平越前守(福井藩主)が霊岸島に広大な敷地(お寺の南側)を拝領して下屋敷とした。
これに由来して、現在の亀島川は以後「越前堀」と呼ばれるようになっている。
※越前堀は松平越前守屋敷周囲を直接めぐる堀の名、とする資料もあり、どうも、こっちが正しそうだ。この場合亀島川は越前堀とは呼ばれなかったことになる。
また、亀島川の分岐点から隅田川に至るまでの日本橋川は「霊岸島新堀」(新堀川)と呼ばれていたようだ。
その日本橋川と亀島川の分岐点には、今は巨大な「日本橋水門」(下の写真で朱色に見える建物)がデンと構えており、そこから10数mほど南にかかるのが霊岸橋という位置関係になる。江戸時代の霊岸橋はもう少し北、ほぼ水門のあたりにあったらしい。
現在の橋は真新しく、欄干部にはカモメの群れ飛ぶ姿がデザインされていて、あっさりすっきりした雰囲気だ。
ちょうどこの橋の下には東西線のトンネルが通っている(はずである)。